2019年 01月 27日
友人関係
自分は言葉通りにしか受け取ることができない、空気が読めない、他人のことは無関心とそうでないところの差が激しい。
プラス強烈な母の影響も受けたであろう性格と元々のダメ性格の形成で、よくいえば変わり者、相当嫌な人間だ。
今は少しでも普通に近づけられるよう努力中。
こんな人間なのに学校生活内でいじめ等にあったことがない。
クラスでも大人しい目立たないタイプだったと思うが、身なりも関心がないので小綺麗でもない、
性格も問題あり、今考えても無視などいじめられる要素はたくさんあったと思う。
だけど一人ぼっちなどならずに少ないながらも友達と一緒にいることができた。
各学校も行きたくないという気持ちになったことがない。
もしかすると煙たく思う人たちもいたのかもしれないが、自分が鈍感で感じなかったのかもしれない。
全く自分はわからなかったのだからラッキーだったのだろう。
何より寛容な人たち(クラスメートや部活動など)に囲まれ恵まれていたのだろう。
学校生活はそのような感じだった。
ある習い事は違った。
いくつか習い事をさせてもらっていた。
自分がやりたいとお願いした習い事は一つもなかった。
というより、自分から何かをしたいという意識さえも生まれていなかったのだから。
当時やらされ感たっぷりで、通うのも面倒で嫌なものばかりだった。
下流レベルの貧乏な家で各月謝も大変だっただろうと想像できる。
中には嫌々やらされていたけど今はその経験は無駄ではなかったと思うものもあるから、
親に感謝の気持ちもある。ありがちな話だ。
その中で妹と一緒に始めた習い事があった。
母がいい教育になると見つけてきたものだったと思う。
それは興味もなく特に嫌なものだった。
嫌だと母に言ったことはない(過去も現在も)、反抗するなんて考えも及ばなかった。
その習い事は学年差がある大勢の子どもたちで一緒に行うものだった。
そこでの習い事では学校と違い、私は一人ぼっちだった。
誰一人として友達ができなかった。
自分も話しかけることもできなかったし、他の人たちも私に話しかけて来なかった。
意地悪なことなどは一切なかった。
ただ存在ごと無視されていた。
自分はそこに存在していない、空気のように見えないようだった。
嫌われていたのだ。
当時の自分はその習い事が下手という認識はなかった。みんなと同じようにできていると思っていた。
今でも酷すぎることもなく、上手すぎることもなく、普通レベルだったと思うのだが、これは自分のことだからよくわからない。
ということは自分の嫌な性格が原因だったのだろう。
学校でこうならなかったのがラッキーだったのだから。
学校と違う点は、小中混在の多年齢、色々な学校からきていた集まりだった。
とにかくその時間は拷問のようで全く楽しくなく辛いばかりだった。
辛いのは周囲も同じだったことだろう。嫌な人間が混じっているのだから。
私が存在することで嫌な思いをしていたのだろう、申し訳なく思う。
休み時間になると、一人になれる部屋に移り本を読んでいた。
月謝を払う習い事なのだから嫌なら辞めれば済むことなのに、辞めたいと母に言えなかった。
私が辞めれば周囲も楽だったのに。
結局中2でやっと高校受験のためという理由で辞めることができた。
反対に妹は私とは違いそこでも大人気だった(学校でも)。
誰にでも好かれる人柄であり、当初の実力は努力というより要領の方がよかったが、だんだんと努力するようになって力をつけた。
妹の友人の作り方やコミュニケーションの取り方をこの習い事でよく見ることができた。
妹はニコニコして可愛く、誰とでも朗らかに話し老若男女から好かれるのは自然だった。
自分とはなんでこんなに正反対なんだろうと思った。
そして私は妹のことが尊敬と憧れと誇りだった。
もちろん姉妹喧嘩は小学校の頃くだらないことでよくしたものだ。
でも大好きな気持ちは変わらなかった。
妹は私がやめた後もその習い事をずっと続け、今でもその仲間たちと連絡を取っている。
この5年弱の習い事の時間は辛い記憶しかない。
存在を無視されるというのがこれほど辛いことなのだ知った期間だった。
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by akisaku1231
| 2019-01-27 19:52
| 私の生育、環境

